強靭なリーダーシップで賛光電器産業の礎を築いた寺本欣正(1915年~2003年)。
その言動は今なお語り継がれ、社員の心棒となっています。
その言動は今なお語り継がれ、社員の心棒となっています。
時代の先が見えた、欧米視察(1961年)
日本人の海外渡航が自由でなかった時代。寺本会長は、日本の広告文化振興の目的で、イタリア、フランス、エジプト、アメリカなど視察する機会を得た。 世界のまちなみや街路灯は、寺本会長の目を大きく開かせ、その新たな目で日本の街路灯を見渡すと「田舎提灯」のように見えたと言う。 その後は、欧米のデザインなども取り入れ、意匠の面においても高い評価を受けるようになった。ひたむきな努力は、人の心を打つ
昭和三十年代、既製勢力のライバル会社との熾烈な競争を展開していたころ。仕事の足は、相手はトラック、寺本会長らはリヤカーと その差は大きく開いていた。 しかし、工事後も道路の清掃に気を配るなど、きめ細かな対応を重ねていくうちに厚い信頼を得るようになり、受注が増加。 次第にその評判は、全国へと広がっていった。寺本式ネオン管
街路灯事業が軌道に乗り始めたころ、寺本会長はネオン管製造の自社工場を建設した。 寺本式ネオン管は、金属によって製造するという当時としては画期的な手法。 金型を用いることで飛躍的に効率化が進んだ。この自社工場をエンジンとして、賛光グループはその後大きな発展を遂げていった。座右の銘は「直心是道場」
出会う人、めぐりあう事柄など、人生のさまざまなことから常に学ぼうとする心をもち、自ら修養しようという意味。 寺本会長の前半生は苦労が多かったが、見るモノ、聞くモノ全てを自分の血や肉とし、将来の夢を大きく抱いていた。 また、仕事とそれに携わる人たちへの愛着の強さはひとしおで、それゆえ寺本会長を慕う人も多く、今なおカリスマ的な存在となっている。アクリルの可能性にいち早く着眼
現在、主流となりつつあるアクリルのグローブ。 実は、寺本会長は昭和三十年代にすでにアクリルの優位性に注目し、その開発に取り組んでいた。 時代の流行にそぐわず不遇な時期もあったが、それでも地道にアクリルの可能性を追求し続けてきた。 その実績が、現在の賛光のアクリル技術に厚みをもたせている。
寺本欣正の足跡
- 1950年
- 看板塗装業「大洋社」を設立
- 1953年
- 「賛光ネオン」に商号変更。ネオン電飾業界に進出
- 1960年
- 「賛光電器産業株式会社」に商号変更
- 1961年
- 欧米視察旅行
- 1963年
- 全国街路灯普及促進連絡協議会を結成、会長、副会長を歴任
- 1974年
- 東京上野駅前に自社ビル落成
- 1994年
- 群馬県功労者表彰
- 1998年
- 社団法人「豊生会」の経営スタート